ミュシャ関連/与謝野晶子関連
2013年03月28日
ミュシャ展に行ってきました(JR京都駅ビル ギャラリーえき)
3月の一ヶ月間、JR京都駅ビルのジェイアール京都伊勢丹では7Fの美術館「えき」KYOTOで<知られざるミュシャ展 −故国モラヴィアと栄光のパリ−>というタイトルのアフフォンス・マリア・ミュシャの作品展が開催されています。
夫婦揃ってミュシャの作品が好きなので“チェコ、秘蔵の個人コレクション(チマル・コレクション)一挙公開!”という言葉を受け、3/16に京都へ出掛けてきました。
土曜日の日中という事で、会場内は場所によって若干の混雑具合でした。
堺市のミュシャミュージアム同様、作品に近い位置から鑑賞出来るのは有り難かったです。
何度もミュシャ展に行っていますので、ポスターや雑誌の表紙絵などが殆どのミュシャ作品については目新しいものは少なかったですが、久しぶりに見た作品も多く、良い時間を過ごす事が出来ました。
今回のミュシャ展の図録を買おうとしたのですが、残念ながら販売されていなかった(売り切れ?)ので、ミュシャ展のメインポスターとして扱われていたスラヴィア銀行のポスターとパリ万博の公式晩餐会招待状の2種類のミニポスターを購入しました。
その後は国内数箇所を巡回する予定とのこと。
ミュシャ作品やアールヌーボーがお好きであれば、お花見がてら、立ち寄られる事をお勧めします。
(ICOCA、Suica、TOICA、SUGOCAといったJRグループのカードで支払う前売り価格扱いとなるそうですよ。)
2006年06月21日
与謝野晶子と童話、童謡 (与謝野晶子文芸館 その3)
与謝野晶子は短歌以外に多くの論評を残し、源氏物語をはじめとする古典文学の現代語訳化に力を注いでいました。
そんな中、子供達を楽しませたのが、晶子の作った、童話、童謡でした。
それらの中で、晶子は自分の子供達を登場させています。
例えば、童話「鬼の子供」では長男“光”を、童謡、「紙で切った象」の中では4男“アウギュスト”をといった具合に。
晶子が童話を作る上で、基本となったのは、自分の子供達に読み聞かせたい<おとぎ話>という事でした。
晶子が明治43年(1910年)に博文館から『おとぎ話少年少女』を出版した時、その冒頭の「はしがき」にこう記しています。
『自分の二人の男の子と二人の女の子とが大きく成っていくに従って、何かお伽噺が要るようになって参りました。』
そこで、始めのうちはこの頃新しく作られたお伽噺を読み聞かせていたのですが、晶子の考える、“子供をのんびりと清く素直に育てよう”“ひろく大きく楽天的に育てよう”という趣旨には合わないものが多く、結局自分で作る事にしたのです。
作られたお伽噺達は、明治40年(1907年)から『少女世界』『少女の友』『少女画報』等の雑誌に毎月連載されていきました。
いずれも短編のお話で割合易しい言葉で書かれています。
4月末に与謝野晶子文芸館を訪れた際には、「金魚のお使い」という絵本が展示されておりました。
そこでどうしてもどんなお話か知りたくなって、今回は2Fのミュージアムショップを探したところ・・・ありました!
『おとぎ話少年少女』そのままではありませんが、晶子の発表した童話達を新たにまとめ直した書籍が出版されていました。
題名も、<童話 金魚のお使い> です。で、もう1冊 <童話 環の一年間> という題名の本も置いてありました。
<金魚のお使い>の方は幼年向きのお話をまとめたもの、<童話 環の一年間>の方は少年、少女向きの童話と随筆をまとめたものとなっています。
出版社は 和泉書院 税込価格はいずれも¥1529です。>
この日は<童話 金魚のお使い>の方だけを買いました。子供が生まれたら読み聞かせてあげるつもりです。
文章や内容は古そうですが、晶子が“子供に読み聞かせたい”というコンセプトで作ったものですから、きっと今でも通用すると思います。
あとは、読んであげる“お父さん”の腕次第ということでしょうか?
追記;こんなに子沢山だとさぞ大変だろうとは思っていたのですが、<金魚のお使い>の解説部分にこんな文章がありました。
以下、解説文より
当時の晶子は、<『みだれ髪』で名高い女流歌人>という華やかなイメージから、およそかけ離れた貧乏暮らしをしていました。
情熱的な恋の歌を載せた『明星』も百号で終刊になり、失意の日を送る夫との間がぎくしゃくすることもありました。
その父はうち打擲(ちょうちゃく)すその母は別れむと言ふあはれなる児等 寛
という歌が残っているくらいです。
けれど、(中略)お伽噺の中には、いかめしい中にもやさしい父親寛が度々描かれています。
両親がお互いに尊敬し、協力しあってつくっていく家庭が描かれるのは、(中略)大正期の作品を待たなければなりません。
やはり、どの家庭にも苦労があったようですね。
このことは、与謝野晶子文芸館では語られておりませんでした。
こんどは是非<環の一年間>も買ってみようと思います。
2006年06月20日
与謝野晶子と子供達、そして母性保護論争(与謝野晶子文芸館その2)
前回の記事で触れなかった、与謝野晶子の子供達についてです。
与謝野晶子、鉄幹夫妻は合計11人の子供達に恵まれました。(正確には12人を出産しています。)
最初の子供は、結婚の翌年、明治35年(晶子24歳)11月に生まれました。長男、光です。
明治37年(晶子26歳)の7月には次男、秀(しげる)が誕生。
この年の9月、「明星」に<君死にたまふこと勿れ>を発表しています。
明治40年(晶子29歳)の3月には長女、八峰(やつお)、次女、七瀬の双子を生んでいます。
この翌年、明治41年、11月には「明星」が廃刊になってしまいます。
明治42年(晶子31歳)3月には3男、麟を出産します。
明治43年(晶子32歳)2月には3女、佐保子を出産します。
明治44年(晶子33歳)2月には4女、宇智子を出産します。
この年の11月には、夫鉄幹が渡欧しています。
翌、明治45年(晶子34歳)5月には、これらの子供たちを残して、晶子も夫の後を追ってシベリア鉄道経由でパリに旅立ってしまいます。
ですが、子供恋しさから10月には単身、海路で帰国しています。
翌、大正2年(晶子35歳)1月に鉄幹が帰国。4月には4男、アウギュスト(後に碰(いく)と改名)を出産します。
大正4年(晶子37歳)3月には5女、エレンヌを出産します。
大正5年(晶子38歳)3月には5男、健を出産します。
大正6年(晶子39歳)、10月には6男、寸(そん)を出産しますが、生後2日で死亡してしまいます。
翌、大正7年(晶子40歳)6月頃から平塚らいてう女史との間での“母性保護論争”が活発化し始めます。
大正8年(晶子41歳)3月には6女、藤子を出産します。
これで合計12人です。
子供達の名付け親は与謝野夫妻だけではありません、上田敏、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、森鴎外、ロダン等がなっており、ここからも2人の交友関係の広さがうかがえます。
アウギュスト、エレンヌという名前が付けられた理由も分かりますね。
途中で出てきた“母性保護論争”に触れておきます。
これは平塚らいてう女史との間で、大正5年から大正8年まで続いた論争です。
国家が女性(母親)に対して取るべき立場を論じ合っておりました。
平塚らいてうの立場はこうです。
育児は社会にとっても重要な仕事であるので、国家による母性の経済的保護は当然である。
他方、与謝野晶子の立場はこうです。
国家に頼らず女性が自分の力で経済的に独立する事が大切である。
平和な時代であれば両者の意見は共に理解出来ますが、いざ戦時体制国家に移行した場合、国家による経済的保護を受けた状態では、子供を戦争にとられる親として、反戦を訴えるなど、
国家体制に反対する事は出来る立場ではなくなることを考えると、与謝野晶子のとらんとした立場の意味合いが理解出来ます。
2006年06月19日
与謝野晶子文芸館(堺市立文化館)の見学報告
日曜日に大阪堺市にある堺市立文化館に行って来ました。
堺市出身の歌人(文人)与謝野晶子を記念して作られた資料館です。
規模はさほど大きくありませんが、多くの資料と共に与謝野晶子の生涯を大まかに学ぶ事が出来る構成となっていました。
まず最初に置いてあるのが、与謝野晶子が東京荻窪の自宅で実際に愛用していた鏡台や箪笥などの家具類です。
いずれも木製で簡素なつくりの物でした。
その後はたくさんのパネルや展示ケースが並びます。
ケース内には晶子が投稿していた雑誌「明星」や出版された代表作<みだれ髪>をはじめとする数多くの作品集や評論集、直筆の書などが展示されておりました。
また、京都鞍馬寺の住職が晶子の夫、与謝野鉄幹に師事していたという関連で、晶子が夫と共に鞍馬寺で暮らしていた頃に愛用していた食器や湯飲み茶碗なども展示されておりました。
パネルでは、晶子の生涯が割合詳しく紹介されておりました。
以下にかいつまんで紹介したいと思います。
与謝野晶子は明治11年(1878年)12/7に堺で有名な和菓子屋の次女として生まれました。
男4人、女6人の合計10人兄弟の3番目。戸籍上の名前は「晶子」ではなく「志よう」となっています。
上の兄、姉は先妻の子供、また彼女の弟、妹のうち、4人は幼くして亡くなっております。
明治25年(1892年)に堺女学校(現在の府立泉陽高校)を卒業後、明治29年(1896年)に堺敷島会に入会する事で文壇活動を開始。
明治33年(1900年)「明星」2号にはじめて短歌が掲載された後、8月、後に夫となる与謝野鉄幹(寛)と初めて出会います。
翌34年1901年)の6月には鉄幹の追って上京、8月には歌集<みだれ髪>を刊行、9月には22歳で鉄幹と結婚しています。
ですので、この<みだれ髪>では鉄幹へのあふれる思いと、青春のみずみずしさとが歌い上げられ、当時の若い世代から圧倒的な支持を得た歌集となりました。
文学史的にも<みだれ髪>は浪漫主義の代表作とされています。
与謝野晶子の代表作として有名な<君死にたまふこと勿れ>は明治37年(1904年)9月、「明星」に発表されています。
時代の圧力に屈しない彼女の強さの表れともいえる作品です。
こちらのサイト(名詩朗読喫茶室)で<君死にたまふこと勿れ>の朗読を聴く事が出来ます。
明治44年(1911年)11月に鉄幹が渡欧すると、翌明治45年(1912年)5月には、夫恋しさからシベリア鉄道経由でパリへ追いかけていきます。
もちろん、当時生まれていた7人子供達は日本に残したままです。
これらの行動が、『情熱の歌人』と呼ばれる所以なのでしょう。
結局子供恋しさから、10月には海路で単身帰国しています。(鉄幹帰国は翌大正2年(1913年)1月、4月には4男アウギュストが生まれています)
その後、女性の権利に焦点を当てた論評を多く発表し、平塚らいてふ女史との間で“母性保護論争”を展開しています。
さらに夫鉄幹らと共に<文化学院>を設立するなど、女性教育の場でも積極的な役割を果たしました。
また、短歌や論評のみならず<源氏物語>をはじめとする古典文学の現代語訳をライフワークとしていたという一面もあります。
昭和10年(1935年)3月に夫鉄幹が急性肺炎のため62歳で亡くなった以後、晶子は残された子供達の自立を見届け、昭和17年(1942年)5月29日、63歳で亡くなっています。
パネルではこのほか与謝野鉄幹・晶子夫妻の幅広い交友関係なども紹介されています。
館内では展示に関連した簡単な参考資料類が無料で配布されておりますし、2階のミュージアムショップでは晶子が使用していた物と同じ「玉川堂」製の短冊や色紙、与謝野晶子関連の書籍やグッズが販売されておりました。
国語の時間だけでは分からない<与謝野晶子>を知る大変よい場所だと思いますので、お時間のある方は一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか?
最寄り駅はJR阪和(はんわ)線堺駅。すぐお隣にあるベルマージュ堺弐番館の2Fから4Fが堺市立文化館のスペースとなっています。
開館時間は 9:30-17:15(入場は16:30まで)
休館日は 第2、第4月曜日と12/29-1/5までの期間
観覧料は与謝野晶子文芸館とアルフォンス・ミュシャ館両方が見られて
大人 ¥500 高校・大学生 ¥300 小・中学生 ¥100 と非常にリーズナブルです。
2006年01月28日
ミュシャ展記念講演会の内容報告
かなり時間が経ってしまいましたが昨年12月に大阪サントリーミュージアム天保山主催により行われましたミュシャ展記念講演会の内容をご報告致します。
開催されましたのは昨年、2005年12月10日の午後2時からサントリーミュージアムのお隣にある海遊館ホールでした。
今回の講演をしてくださったのは成城大学の千足伸行教授、《アルフォンス・ミュシャーベル・エポックの華から祖国愛の画家へ》という題での講演でした。
まず、最初は今回の展覧会についてのお話です。今回の開催に当たってはミュシャの孫に当たるジョン・ミュシャ氏が理事を務めるミュシャ財団の管理品を提供して頂きました。
次に、アルフォンス・ミュシャの生い立ちについての話となりました。
彼は1860年チェコスロバキアの首都プラハから車で2時間ほどのモラビアの小さな村で生まれました。
父親は裁判所の職員で、罪人を護送する仕事についていました。
ミュシャ自身は子供の頃、教会の合唱団に入っていました。
当時のチェコはドイツ=オーストリア帝国を治めるハプスブルグ家の支配下にあり、ドイツ語が義務づけられておりました。
その為彼はまずプラハからウィーンへ移り、その後ミュンヘンで勉強を続け最終的には27歳の時パリへ移りました。
当時、100万人都市であったパリにおいて、音楽や美術等の芸術を志す“アーティスト”の数は5万人であったと言われています。
そのパリにおいて、ミュシャはまず挿絵画家として仕事を開始しました。
そして1894年の暮れも押し迫った頃、パリのルネサンス座からサラベルナールの新年公演の為のポスターを至急作って欲しいと言う依頼が、印刷業者、ルメルシエの所に舞い込みました。
たまたまこの時、いつものポスターデザイナーがクリスマス休暇で不在だった為、面識のあったミュシャに急遽、代役として白羽の矢が立てられました。
このポスター製作を引き受けた彼は約1週間でデザインを完成させ、その作品をサラに見せました。
後年、ミュシャは、「この時サラはこの作品の前にじっと立ち目をそらす事がなかった。そして私に近づくと私を抱きしめ『よくやった』と言った」と語ったと言う話もあります。
この時彼が描いた作品が《ジスモンダ》だと言われています。
こうして女優サラベルナールの信頼を得たミュシャは彼女の主演作品のポスターを次々と手がけ、一躍人気を博していく事になるのです。
ちなみにこの“ミュシャ”(Mucha)と言う名前、実はフランス語での発音であり、祖国チェコ語では“ムハ”と発音するそうです。
ミュシャが活躍を開始した1890年代、ヨーロッパ世界は<世紀末時代>へ突入して行きました。
この時期はちょうど長く続いてきた<貴族文化>から<民衆(大衆)文化>への流れが生まれてきた時代に相当します。
ミュシャが暮らしたフランスでは、この頃カフェ、キャバレー、サーカスなどが出来始めました。
人々や街を照らす《光》が“ろうそく”から“電気”に変わると共に、《夜》が明るくなり、それに伴って人々の“夜の”賑わいが生まれました。
これが上述の娯楽施設を生み出すきっかけとなったと言えるでしょう。
後世《ベルエポック(よき時代)》と呼ばれる事になるこの時代の“波”に乗ったのがミュシャでした。
彼は従来の“画家”とは異なる“デザイナー”として自身の地位を築いていきました。
また、彼が手がけるポスターを始めとした“印刷物”は従来の“絵画”とは異なり、刷られる枚数が多いので大量に消費する“民衆の支持”なくしては成立し得ないものだったのですが、これも大衆文化の潮流に助けられる形となりました。
そういった意味で彼は非常にタイミングよく登場した“シンデレラボーイ”ともいえるでしょう。
この時期、非常な勢いで広まっていったメディアとしての<ポスター>ですが、フランスではシェレ、ロートレック、ボナールなど、既に多くの作家たちが活躍し人気を博しておりました。
そこに登場したミュシャですが、彼らとはその趣を異にしておりました。
そして時代は《アールヌーボー》へと進んで行きます。
《アールヌーボー》の理想は『芸術の大衆化』にあります。つまり、民衆生活の“潤い”(=生活の美的向上)を生み出す事を目的としていました。
旧来これらの“潤い”は貴族文化に属するものでした。
この『生活の美的向上』という考え方はイギリスから導入されたものでした。
フランスに先立ち、イギリスではジョンラスキンやウィリアムモリスといった人々がこの流れを確立して行きました。
彼らの行動は、従来のような“安かろう悪かろう”ではなく、マイセンやセーブルと言った“貴族用”とまでは行かないものの、“良いものを一般に”提供する事を目的としていました。
ここから『誰でも楽しめる芸術』としての<アールヌーボー>が確立されていくのです。
これにはこの頃生まれた《万国博覧会》が一役買っておりました。
なかでも1900年の《パリ万博》で<アールヌーボー>は頂点を迎えることとなります。
ジャポニズムに代表されるモネやルノワール、アフリカン(野性的エキゾティズムとでもいいましょうか)から影響を受けたピカソやカンディンスキー、博覧会の寵児とも言えるガレやティファニー、様々な美的潮流が生まれていく事になります。
しかしながら、ヨーロッパ列強の覇権主義の衝突が引き起こした第一次大戦と共に<アールヌーボー>は終焉を迎え、続く<アールデコ>の時代へと進んで行きます。
このようにして終焉を迎えてしまった<アールヌーボー>は長く歴史のかなたに置き忘れられていましたが、1960年代に入り再評価を受ける事となりました。
その評価の中でアールヌーボー様式の1つとして<ミュシャ様式>と言う形が確立されたのです。
ミュシャ自身は後年、祖国チェコの独立とその後の支援の為、民族主義的、宗教的な作品へとその方向性を変化させて行きました。
そして第二次大戦の悲惨さを経験することなく1939年にこの世を去ります。
一説によると、晩年、ユダヤ人との疑いをかけられてゲシュタボに連行されたらしく、これが彼の死期を早めた一因だとも言われています。
いまや世界中にその業績が知られるミュシャですが、祖国チェコでの彼の評価は低く、ここ数年になってやっとミュシャ専門のミュージアムが建設されたのは驚きです。
講演会では後半、スライドを使用し40数点の映像を交えながら詳しい説明をされ、終了となりました。
長々と報告して参りましたが、今回の展覧会は残念ながら明日1/29で終了となってしまいます。
販売されていた図録によると、この巡回展覧会はこのサントリーミュージアムが最終の会場となっていましたので、お近くの方で観てみたい方は大変な混雑が予想されますので、是非早い時間に足をお運び下さい。
展覧会の感想、その他お伝えしたい事柄につきましては明日以降に報告させて頂きます。