2006年06月20日
与謝野晶子と子供達、そして母性保護論争(与謝野晶子文芸館その2)
前回の記事で触れなかった、与謝野晶子の子供達についてです。
与謝野晶子、鉄幹夫妻は合計11人の子供達に恵まれました。(正確には12人を出産しています。)
最初の子供は、結婚の翌年、明治35年(晶子24歳)11月に生まれました。長男、光です。
明治37年(晶子26歳)の7月には次男、秀(しげる)が誕生。
この年の9月、「明星」に<君死にたまふこと勿れ>を発表しています。
明治40年(晶子29歳)の3月には長女、八峰(やつお)、次女、七瀬の双子を生んでいます。
この翌年、明治41年、11月には「明星」が廃刊になってしまいます。
明治42年(晶子31歳)3月には3男、麟を出産します。
明治43年(晶子32歳)2月には3女、佐保子を出産します。
明治44年(晶子33歳)2月には4女、宇智子を出産します。
この年の11月には、夫鉄幹が渡欧しています。
翌、明治45年(晶子34歳)5月には、これらの子供たちを残して、晶子も夫の後を追ってシベリア鉄道経由でパリに旅立ってしまいます。
ですが、子供恋しさから10月には単身、海路で帰国しています。
翌、大正2年(晶子35歳)1月に鉄幹が帰国。4月には4男、アウギュスト(後に碰(いく)と改名)を出産します。
大正4年(晶子37歳)3月には5女、エレンヌを出産します。
大正5年(晶子38歳)3月には5男、健を出産します。
大正6年(晶子39歳)、10月には6男、寸(そん)を出産しますが、生後2日で死亡してしまいます。
翌、大正7年(晶子40歳)6月頃から平塚らいてう女史との間での“母性保護論争”が活発化し始めます。
大正8年(晶子41歳)3月には6女、藤子を出産します。
これで合計12人です。
子供達の名付け親は与謝野夫妻だけではありません、上田敏、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、森鴎外、ロダン等がなっており、ここからも2人の交友関係の広さがうかがえます。
アウギュスト、エレンヌという名前が付けられた理由も分かりますね。
途中で出てきた“母性保護論争”に触れておきます。
これは平塚らいてう女史との間で、大正5年から大正8年まで続いた論争です。
国家が女性(母親)に対して取るべき立場を論じ合っておりました。
平塚らいてうの立場はこうです。
育児は社会にとっても重要な仕事であるので、国家による母性の経済的保護は当然である。
他方、与謝野晶子の立場はこうです。
国家に頼らず女性が自分の力で経済的に独立する事が大切である。
平和な時代であれば両者の意見は共に理解出来ますが、いざ戦時体制国家に移行した場合、国家による経済的保護を受けた状態では、子供を戦争にとられる親として、反戦を訴えるなど、
国家体制に反対する事は出来る立場ではなくなることを考えると、与謝野晶子のとらんとした立場の意味合いが理解出来ます。
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Hy H. Yokokawa
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与謝野晶子を調べるために
おじゃまさしていただきました。
非常に助かりました。
どうしてもお礼を
いいたくてコメントしました。
ありがとうございました。