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2006年06月21日

与謝野晶子と童話、童謡 (与謝野晶子文芸館 その3)

与謝野晶子は短歌以外に多くの論評を残し、源氏物語をはじめとする古典文学の現代語訳化に力を注いでいました。

そんな中、子供達を楽しませたのが、晶子の作った、童話、童謡でした。

それらの中で、晶子は自分の子供達を登場させています。

例えば、童話「鬼の子供」では長男“光”を、童謡、「紙で切った象」の中では4男“アウギュスト”をといった具合に。

晶子が童話を作る上で、基本となったのは、自分の子供達に読み聞かせたい<おとぎ話>という事でした。

晶子が明治43年(1910年)に博文館から『おとぎ話少年少女』を出版した時、その冒頭の「はしがき」にこう記しています。

『自分の二人の男の子と二人の女の子とが大きく成っていくに従って、何かお伽噺が要るようになって参りました。』

そこで、始めのうちはこの頃新しく作られたお伽噺を読み聞かせていたのですが、晶子の考える、“子供をのんびりと清く素直に育てよう”“ひろく大きく楽天的に育てよう”という趣旨には合わないものが多く、結局自分で作る事にしたのです。

作られたお伽噺達は、明治40年(1907年)から『少女世界』『少女の友』『少女画報』等の雑誌に毎月連載されていきました。

いずれも短編のお話で割合易しい言葉で書かれています。

4月末に与謝野晶子文芸館を訪れた際には、「金魚のお使い」という絵本が展示されておりました。

そこでどうしてもどんなお話か知りたくなって、今回は2Fのミュージアムショップを探したところ・・・ありました!

童話 金魚のお使い 表紙おとぎ話少年少女』そのままではありませんが、晶子の発表した童話達を新たにまとめ直した書籍が出版されていました。

題名も、<童話 金魚のお使い> です。で、もう1冊 <童話 環の一年間> という題名の本も置いてありました。

金魚のお使い>の方は幼年向きのお話をまとめたもの、<童話 環の一年間>の方は少年、少女向きの童話と随筆をまとめたものとなっています。

出版社は 和泉書院 税込価格はいずれも¥1529です。

この日は<童話 金魚のお使い>の方だけを買いました。子供が生まれたら読み聞かせてあげるつもりです。

文章や内容は古そうですが、晶子が“子供に読み聞かせたい”というコンセプトで作ったものですから、きっと今でも通用すると思います。
あとは、読んであげる“お父さん”の腕次第ということでしょうか?


追記;こんなに子沢山だとさぞ大変だろうとは思っていたのですが、<金魚のお使い>の解説部分にこんな文章がありました。

以下、解説文より

当時の晶子は、<『みだれ髪』で名高い女流歌人>という華やかなイメージから、およそかけ離れた貧乏暮らしをしていました。
情熱的な恋の歌を載せた『明星』も百号で終刊になり、失意の日を送る夫との間がぎくしゃくすることもありました。

その父はうち打擲(ちょうちゃく)すその母は別れむと言ふあはれなる児等   寛

という歌が残っているくらいです。
けれど、(中略)お伽噺の中には、いかめしい中にもやさしい父親寛が度々描かれています。
両親がお互いに尊敬し、協力しあってつくっていく家庭が描かれるのは、(中略)大正期の作品を待たなければなりません。

やはり、どの家庭にも苦労があったようですね。
このことは、与謝野晶子文芸館では語られておりませんでした。

こんどは是非<環の一年間>も買ってみようと思います。



2006年06月20日

与謝野晶子と子供達、そして母性保護論争(与謝野晶子文芸館その2)

前回の記事で触れなかった、与謝野晶子の子供達についてです。

与謝野晶子、鉄幹夫妻は合計11人の子供達に恵まれました。(正確には12人を出産しています。)

最初の子供は、結婚の翌年、明治35年(晶子24歳)11月に生まれました。長男、光です。
明治37年(晶子26歳)の7月には次男、秀(しげる)が誕生。
この年の9月、「明星」に<君死にたまふこと勿れ>を発表しています。
明治40年(晶子29歳)の3月には長女、八峰(やつお)、次女、七瀬の双子を生んでいます。

この翌年、明治41年、11月には「明星」が廃刊になってしまいます。

明治42年(晶子31歳)3月には3男、麟を出産します。
明治43年(晶子32歳)2月には3女、佐保子を出産します。
明治44年(晶子33歳)2月には4女、宇智子を出産します。
この年の11月には、夫鉄幹が渡欧しています。

翌、明治45年(晶子34歳)5月には、これらの子供たちを残して、晶子も夫の後を追ってシベリア鉄道経由でパリに旅立ってしまいます。
ですが、子供恋しさから10月には単身、海路で帰国しています。

翌、大正2年(晶子35歳)1月に鉄幹が帰国。4月には4男、アウギュスト(後に碰(いく)と改名)を出産します。
大正4年(晶子37歳)3月には5女、エレンヌを出産します。
大正5年(晶子38歳)3月には5男、健を出産します。
大正6年(晶子39歳)、10月には6男、寸(そん)を出産しますが、生後2日で死亡してしまいます。

翌、大正7年(晶子40歳)6月頃から平塚らいてう女史との間での“母性保護論争”が活発化し始めます。

大正8年(晶子41歳)3月には6女、藤子を出産します。
これで合計12人です。

子供達の名付け親は与謝野夫妻だけではありません、上田敏、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、森鴎外、ロダン等がなっており、ここからも2人の交友関係の広さがうかがえます。
アウギュスト、エレンヌという名前が付けられた理由も分かりますね。

途中で出てきた“母性保護論争”に触れておきます。

これは平塚らいてう女史との間で、大正5年から大正8年まで続いた論争です。
国家が女性(母親)に対して取るべき立場を論じ合っておりました。

平塚らいてうの立場はこうです。
育児は社会にとっても重要な仕事であるので、国家による母性の経済的保護は当然である。

他方、与謝野晶子の立場はこうです。
国家に頼らず女性が自分の力で経済的に独立する事が大切である。

平和な時代であれば両者の意見は共に理解出来ますが、いざ戦時体制国家に移行した場合、国家による経済的保護を受けた状態では、子供を戦争にとられる親として、反戦を訴えるなど、
国家体制に反対する事は出来る立場ではなくなることを考えると、与謝野晶子のとらんとした立場の意味合いが理解出来ます。



2006年06月19日

与謝野晶子文芸館(堺市立文化館)の見学報告

日曜日に大阪堺市にある堺市立文化館に行って来ました。

与謝野晶子写真1堺市出身の歌人(文人)与謝野晶子を記念して作られた資料館です。
規模はさほど大きくありませんが、多くの資料と共に与謝野晶子の生涯を大まかに学ぶ事が出来る構成となっていました。

まず最初に置いてあるのが、与謝野晶子が東京荻窪の自宅で実際に愛用していた鏡台や箪笥などの家具類です。
いずれも木製で簡素なつくりの物でした。

その後はたくさんのパネルや展示ケースが並びます。
みだれ髪の表紙ケース内には晶子が投稿していた雑誌「明星」や出版された代表作<みだれ髪>をはじめとする数多くの作品集や評論集、直筆の書などが展示されておりました。
また、京都鞍馬寺の住職が晶子の夫、与謝野鉄幹に師事していたという関連で、晶子が夫と共に鞍馬寺で暮らしていた頃に愛用していた食器や湯飲み茶碗なども展示されておりました。

パネルでは、晶子の生涯が割合詳しく紹介されておりました。

以下にかいつまんで紹介したいと思います。

与謝野晶子は明治11年(1878年)12/7に堺で有名な和菓子屋の次女として生まれました。
男4人、女6人の合計10人兄弟の3番目。戸籍上の名前は「晶子」ではなく「志よう」となっています。
上の兄、姉は先妻の子供、また彼女の弟、妹のうち、4人は幼くして亡くなっております。

明治25年(1892年)に堺女学校(現在の府立泉陽高校)を卒業後、明治29年(1896年)に堺敷島会に入会する事で文壇活動を開始。

明治33年(1900年)「明星」2号にはじめて短歌が掲載された後、8月、後に夫となる与謝野鉄幹(寛)と初めて出会います。
翌34年1901年)の6月には鉄幹の追って上京、8月には歌集<みだれ髪>を刊行、9月には22歳で鉄幹と結婚しています。
ですので、この<みだれ髪>では鉄幹へのあふれる思いと、青春のみずみずしさとが歌い上げられ、当時の若い世代から圧倒的な支持を得た歌集となりました。
文学史的にも<みだれ髪>は浪漫主義の代表作とされています。

与謝野晶子の代表作として有名な<君死にたまふこと勿れ>は明治37年(1904年)9月、「明星」に発表されています。
時代の圧力に屈しない彼女の強さの表れともいえる作品です。

こちらのサイト(名詩朗読喫茶室)で<君死にたまふこと勿れ>の朗読を聴く事が出来ます。

明治44年(1911年)11月に鉄幹が渡欧すると、翌明治45年(1912年)5月には、夫恋しさからシベリア鉄道経由でパリへ追いかけていきます。
もちろん、当時生まれていた7人子供達は日本に残したままです。

これらの行動が、『情熱の歌人』と呼ばれる所以なのでしょう。

結局子供恋しさから、10月には海路で単身帰国しています。(鉄幹帰国は翌大正2年(1913年)1月、4月には4男アウギュストが生まれています)

与謝野晶子写真2その後、女性の権利に焦点を当てた論評を多く発表し、平塚らいてふ女史との間で“母性保護論争”を展開しています。
さらに夫鉄幹らと共に<文化学院>を設立するなど、女性教育の場でも積極的な役割を果たしました。

また、短歌や論評のみならず<源氏物語>をはじめとする古典文学の現代語訳をライフワークとしていたという一面もあります。

昭和10年(1935年)3月に夫鉄幹が急性肺炎のため62歳で亡くなった以後、晶子は残された子供達の自立を見届け、昭和17年(1942年)5月29日、63歳で亡くなっています。

パネルではこのほか与謝野鉄幹・晶子夫妻の幅広い交友関係なども紹介されています。

館内では展示に関連した簡単な参考資料類が無料で配布されておりますし、2階のミュージアムショップでは晶子が使用していた物と同じ「玉川堂」製の短冊や色紙、与謝野晶子関連の書籍やグッズが販売されておりました。

国語の時間だけでは分からない<与謝野晶子>を知る大変よい場所だと思いますので、お時間のある方は一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか?


ベルマージュ堺遠景最寄り駅はJR阪和(はんわ)線堺駅。すぐお隣にあるベルマージュ堺弐番館の2Fから4Fが堺市立文化館のスペースとなっています。

開館時間は 9:30-17:15(入場は16:30まで)
休館日は 第2、第4月曜日と12/29-1/5までの期間

観覧料は与謝野晶子文芸館とアルフォンス・ミュシャ館両方が見られて
大人 ¥500 高校・大学生 ¥300 小・中学生 ¥100 と非常にリーズナブルです。



2006年05月31日

シャガール芸術の世界 「愛の旅人 シャガール展」記念講演会の報告

2006年5/13 サントリーミュージアム天保山での「愛の旅人 シャガール展」開催を記念した講演会が海遊館ホールにて執り行われました。
当日は生憎のお天気でしたが、会場はほぼ満席の状態です。
この日の講師は神戸大学助教授の宮下規久朗先生でした。

まずは、一般の人から見たシャガールの印象について話されます。
彼の絵は、甘ったるい、ミーハー、軽く見られる傾向があります。
“シャガール”をグーグルで検索したところ、最初に出てくるのは“風俗店”ばかり。
これもシャガールが“愛の画家”と呼ばれている事に起因しているのかもしれません。

シャガールの美術史的な位置について考えたとき、一つでは表現出来ません。
まず、エコール・ド・パリの画家、それも重要な位置を占めていた人です。
また、キュビズム、シュルレアリズム、ドイツ表現主義の画家などとも呼ばれたりもします。
さらにロシア出身の画家であり、一時期ロシアで活動していた事もあるのでロシア・アバンギャルドの画家とも言われます。

シャガール芸術に影響を与えた芸術は何でしょうか?
まず、生まれ故郷ロシアの伝統芸術であるイコンやルボークが考えられます。
彼の絵に見られる、馬が空を飛んだりするといった独特のシャガール世界はルボークに由来すると言われています。
そして20世紀初頭パリでの前衛芸術活動、後半生ではレンブラントをはじめとする中世の巨匠達の作品に学んだと言われています。

シャガール芸術の主題とモチーフについて考えて見た場合、大きく5つの主題に分けられます。
「故郷」「愛」「音楽」「戦争」「宗教」です。
シャガールは初期から晩年までこれらの主題を繰り返し描いてきました。その為、彼の晩年の作品ははマンネリズムや通俗に堕ちているとの一部批判もあるようです。

ではまず「故郷」について。これを表現するモチーフとしてシャガールは生まれ故郷であるロシアの町ヴィテブスクの風景を自分の絵に取り込んでいます。
彼はロシア生まれのユダヤ人でした。本名は モイシェ・ザハロヴィッチ・シャガロフ です。
赤い家この町はロシアの寒村でユダヤ人ゲットーだったようです。その為ユダヤ風物詩的なものも多く見られ、馬。ロバ、牛、鳥など彼が作品に描く動物達も自然に見られる場所でした。
そして彼にとって第2の故郷である、パリの街。
この地でシャガールは多くの画家達と交友を深め、“キュビズム”の絵を発表していきました。
同時代の画家にパブロ・ピカソがいますが、ピカソの絵が“理知的な空間追求”だったのに対して、シャガールの絵はキュビズムに“ユーモアさ”を持たせました。

つぎに「愛」について。これを表現するモチーフとして最もふさわしいのが、シャガールの妻ベラです。
休息、ベラと花

 

 



シャガールは1914年にロシアに帰郷し、翌1915年、生まれ故郷ヴィテブスクで、大金持ちの宝石商の娘であったベラと結婚、翌年には娘イダが誕生します。
このロシア時代に書かれた絵には傑作が多いとされています。
インスピレーションまたこの頃から絵の中に天使がよく登場するようになって来ました。
その初期作品が<出現>で、画家のところに天使が寄ってくるという絵です。
これはエルグレコの書いた<受胎告知>からインスピレーションを得たのではないかと言われています。
ロシア時代にはもう一つ大きな出来事がありました。
それが1917年の《ロシア革命》です。シャガール自身、この革命により、それまで東欧世界においても虐げられていたユダヤ人の立場が改善される事を期待し、革命政府に積極的に協力するようになりました。
その一つが1919年、ヴィテブスクでの美術学校開校です。
この時期の作品として<前進>があります。
この当時の美術学校の生徒はシャガールについて「何をしても怒らない、いつもニコニコ笑っている人だった」とコメントしています。
シャガールはこの美術学校の講師として、当時、ロシアアバンギャルドのトップであったマレーヴィチを招聘します。
マレーヴィチはカンディンスキーと共にロシアの純粋抽象画家ですが、シャガール自身はそこまでの抽象にはなれませんでした。
そのため、意見対立が生じていきます。
また、革命政府幹部もシャガールの芸術を理解出来ませんでした。
革命にロバの絵は?人や動物が宙に浮き、飛んでいるのは?頭が反対を向いているのは?)
幹部にとっては奇妙で浮ついた印象に映る彼の絵は“ブルジョワ的”とみなされ革命ロシアでは受け入れられなくなって行きました。
シャガール自身も“実際に経験しないと描けない人”であったので、政府や幹部からの要請に基づいた絵を描く事は出来ませんでした。
彼の描く絵はどうしても“労働者の為”、“共産党の為”の絵にはならなかったのです。
その結果、1920年には美術学校を去り、モスクワでユダヤ芸術劇場の装飾に従事することとなりました。
そして1922年にはロシアを去ってベルリンへ移り住みます。
この時、シャガールは多くの作品をロシアに残して出てきましたので、その後、自らレプリカを描いています。
その中でも<家畜商人>の絵のレプリカはシャガール自身が生涯手元に置き飾っていたといわれています。
馬のお腹には子馬の姿が描かれ、後ろの牛はこれからと殺場へ向かうという生と死を表現した絵です。
一方、抽象画家であったマレーヴィチは政府の意向により農民の絵を描かされるようになってしまいました。
ふたりシャガールはこの他にも「愛」を表現するモチーフとして恋人、花束そして自画像を描いています。
中でも自画像の変遷は面白く、初期はより詳しく描いていましたが、晩年になるに従いその像は簡略化、イメージ化されていきました。
また、全ての作品を通じて言える事は、初期の作品はいずれも暗い色調でしたが、次第に明るく豊かな色彩に変化していきました。
後半生の作品に見られる色彩の豊かさはアンリ・マティスに並ぶとも言われています。


次に「音楽」について。これを表現するモチーフとして、楽器やそれを演奏する人物、踊り子やサーカスが採用されています。
《サーカス》よりしかしながらサーカスや旅芸人についてシャガールは『寂しい存在』とも言っており、彼らの「悲劇的な人間存在」の部分をシャガール自身の悲しみと重ね合わせた心象表現としても採用していました。

次に「戦争」について。これを表現するモチーフとして、ポグロム(東欧地域にあった旧来のユダヤ人差別や虐待習慣)、革命、磔刑を採用しています。
実際、ロシアを出た後、シャガールは再びフランスで暮らすようになり、1937年にはフランス国籍を取得するに至ります。
しかし、ナチスの影が忍び寄る1941年には妻ベラと共に迫害を逃れてアメリカに渡りました。
そこで、ロシア革命での体験に基づく教訓と理想を表現しようとした<革命>3連作や十字架をモチーフとした数多くの作品を描いて行きます。
十字架をモチーフとした作品では、戦争や革命で犠牲となった民衆や人類の苦悩を表現したばかりではなく、このアメリカ亡命中に、最愛の妻ベラを病気で失うという悲劇に見舞われたシャガール自身の内面(精神)を表現したものでもあったようです。

最後に「宗教」について。これを表現するモチーフとして旧約聖書や預言者を採用しています。
先の「戦争」とも関連するのですが、シャガールは、自身が戦争中に迫害を逃れる為に逃げ回った経験を旧約聖書の出エジプト記に重ね合わせて表現していると言われています。

第二次大戦後、フランスに戻ったシャガールは従来の絵画作品だけでなく、大型のステンドグラスや壁画などの作成にも携わるようになります。
画家の妻この時期から、絵画においては先述した通り、従来から描いてきたモチーフを反復する作品ばかりを製作するようになります。画面の雰囲気もかつてと比べると緩やかなもの(ぼんやりしたもの)となり、一部の美術鹿や評論家から“大衆芸術化した”と揶揄される事となるのです。

しかしながら、シャガールのみならず、彼が師事したモネ、ルノアール、レンブラント、ティティアーノといった巨匠達の作風も、その晩年にはぼんやりした感じの絵になっています。

シャガールはあくまでも自己の内面世界、内なる自然に忠実であろうとする態度を貫き通し、そこに時には哀愁を帯びながら、私的感情を超えた“普遍的な人間愛”を志向していく画家だったのです。

だからこそ、「愛の旅人、愛の画家」と称されるのでしょう。

講演ではスライドを使用し、多くの作品、そしてシャガール美術館などを紹介されていました。

シャガールについてよく知らなかったので、大変勉強になりました。

掲載写真はサントリーミュージアムHPのものをお借りしました。



2006年05月07日

写真撮影OKの美術館?(なんばウォークの絵画達)

先日、大阪の難波へ出かけた際、ちょっと素敵な場所を見つけました。

地下街の絵画3

地下街の絵画1

 

 


 

たくさんの絵が飾られていて美術館のようでしょ。
でも美術館じゃ作品の写真撮影は許されませんよね。

実はこれ、地下街の一部なのです。
地下街の絵画4

 

 

 

難波の地下街なんばウォークを西方向へどんどん歩いて行きます。
OCATの少し手前、ちょうど地下鉄四つ橋線の改札手前付近の通路が約20メートル位に渡り絵画で飾られています。

地下街の絵画2

 

 

 


一見したところ、いずれも印象派以降の作品(合計20点程度はあったのではないでしょうか)のようで、ちょっとした美術館の趣きです。
私がこの場所に来た時、ここを通る方で足を止めてこれらの絵を見る人は全く見受けられませんでした。
全て複製画ではありますが、どれも名立たる画家達の作品ばかりで本当にもったいない限りでした。

ご覧の通り柵等は無く、本当に目の前でじっくり見られますので、この時代の絵が好きな方はぜひ足を運んで下さい。

地下街の絵画5地下街の絵画6

 

 

 


空調完備で雨知らず、すぐ傍には飲食店や本屋さん、駅の改札も目の前と最高の条件が揃っています。
私も今度はじっくりと絵を見る為に行ってみようと思います。



2006年01月28日

ミュシャ展記念講演会の内容報告

ミュシャ展チラシUPかなり時間が経ってしまいましたが昨年12月に大阪サントリーミュージアム天保山主催により行われましたミュシャ展記念講演会の内容をご報告致します。


開催されましたのは昨年、2005年12月10日の午後2時からサントリーミュージアムのお隣にある海遊館ホールでした。
今回の講演をしてくださったのは成城大学の千足伸行教授、《アルフォンス・ミュシャーベル・エポックの華から祖国愛の画家へ》という題での講演でした。

まず、最初は今回の展覧会についてのお話です。今回の開催に当たってはミュシャの孫に当たるジョン・ミュシャ氏が理事を務めるミュシャ財団の管理品を提供して頂きました。
次に、アルフォンス・ミュシャの生い立ちについての話となりました。
彼は1860年チェコスロバキアの首都プラハから車で2時間ほどのモラビアの小さな村で生まれました。
父親は裁判所の職員で、罪人を護送する仕事についていました。
ミュシャ自身は子供の頃、教会の合唱団に入っていました。

当時のチェコはドイツ=オーストリア帝国を治めるハプスブルグ家の支配下にあり、ドイツ語が義務づけられておりました。
その為彼はまずプラハからウィーンへ移り、その後ミュンヘンで勉強を続け最終的には27歳の時パリへ移りました。

当時、100万人都市であったパリにおいて、音楽や美術等の芸術を志す“アーティスト”の数は5万人であったと言われています。
そのパリにおいて、ミュシャはまず挿絵画家として仕事を開始しました。
そして1894年の暮れも押し迫った頃、パリのルネサンス座からサラベルナールの新年公演の為のポスターを至急作って欲しいと言う依頼が、印刷業者、ルメルシエの所に舞い込みました。
たまたまこの時、いつものポスターデザイナーがクリスマス休暇で不在だった為、面識のあったミュシャに急遽、代役として白羽の矢が立てられました。
このポスター製作を引き受けた彼は約1週間でデザインを完成させ、その作品をサラに見せました。
後年、ミュシャは、「この時サラはこの作品の前にじっと立ち目をそらす事がなかった。そして私に近づくと私を抱きしめ『よくやった』と言った」と語ったと言う話もあります。
この時彼が描いた作品が《ジスモンダ》だと言われています。
ミュシャ展用写真1

こうして女優サラベルナールの信頼を得たミュシャは彼女の主演作品のポスターを次々と手がけ、一躍人気を博していく事になるのです。

ちなみにこの“ミュシャ”(Mucha)と言う名前、実はフランス語での発音であり、祖国チェコ語では“ムハ”と発音するそうです。

ミュシャが活躍を開始した1890年代、ヨーロッパ世界は<世紀末時代>へ突入して行きました。
この時期はちょうど長く続いてきた<貴族文化>から<民衆(大衆)文化>への流れが生まれてきた時代に相当します。

ミュシャが暮らしたフランスでは、この頃カフェ、キャバレー、サーカスなどが出来始めました。
人々や街を照らす《光》が“ろうそく”から“電気”に変わると共に、《夜》が明るくなり、それに伴って人々の“夜の”賑わいが生まれました。
これが上述の娯楽施設を生み出すきっかけとなったと言えるでしょう。

後世《ベルエポック(よき時代)》と呼ばれる事になるこの時代の“波”に乗ったのがミュシャでした。
彼は従来の“画家”とは異なる“デザイナー”として自身の地位を築いていきました。
また、彼が手がけるポスターを始めとした“印刷物”は従来の“絵画”とは異なり、刷られる枚数が多いので大量に消費する“民衆の支持”なくしては成立し得ないものだったのですが、これも大衆文化の潮流に助けられる形となりました。
そういった意味で彼は非常にタイミングよく登場した“シンデレラボーイ”ともいえるでしょう。

この時期、非常な勢いで広まっていったメディアとしての<ポスター>ですが、フランスではシェレ、ロートレック、ボナールなど、既に多くの作家たちが活躍し人気を博しておりました。
そこに登場したミュシャですが、彼らとはその趣を異にしておりました。

そして時代は《アールヌーボー》へと進んで行きます。
《アールヌーボー》の理想は『芸術の大衆化』にあります。つまり、民衆生活の“潤い”(=生活の美的向上)を生み出す事を目的としていました。
旧来これらの“潤い”は貴族文化に属するものでした。
この『生活の美的向上』という考え方はイギリスから導入されたものでした。

フランスに先立ち、イギリスではジョンラスキンやウィリアムモリスといった人々がこの流れを確立して行きました。
彼らの行動は、従来のような“安かろう悪かろう”ではなく、マイセンやセーブルと言った“貴族用”とまでは行かないものの、“良いものを一般に”提供する事を目的としていました。
ここから『誰でも楽しめる芸術』としての<アールヌーボー>が確立されていくのです。
これにはこの頃生まれた《万国博覧会》が一役買っておりました。
なかでも1900年の《パリ万博》で<アールヌーボー>は頂点を迎えることとなります。
ジャポニズムに代表されるモネやルノワール、アフリカン(野性的エキゾティズムとでもいいましょうか)から影響を受けたピカソやカンディンスキー、博覧会の寵児とも言えるガレやティファニー、様々な美的潮流が生まれていく事になります。
しかしながら、ヨーロッパ列強の覇権主義の衝突が引き起こした第一次大戦と共に<アールヌーボー>は終焉を迎え、続く<アールデコ>の時代へと進んで行きます。

このようにして終焉を迎えてしまった<アールヌーボー>は長く歴史のかなたに置き忘れられていましたが、1960年代に入り再評価を受ける事となりました。
その評価の中でアールヌーボー様式の1つとして<ミュシャ様式>と言う形が確立されたのです。

ミュシャ自身は後年、祖国チェコの独立とその後の支援の為、民族主義的、宗教的な作品へとその方向性を変化させて行きました。
そして第二次大戦の悲惨さを経験することなく1939年にこの世を去ります。
一説によると、晩年、ユダヤ人との疑いをかけられてゲシュタボに連行されたらしく、これが彼の死期を早めた一因だとも言われています。

いまや世界中にその業績が知られるミュシャですが、祖国チェコでの彼の評価は低く、ここ数年になってやっとミュシャ専門のミュージアムが建設されたのは驚きです。

講演会では後半、スライドを使用し40数点の映像を交えながら詳しい説明をされ、終了となりました。

長々と報告して参りましたが、今回の展覧会は残念ながら明日1/29で終了となってしまいます。
販売されていた図録によると、この巡回展覧会はこのサントリーミュージアムが最終の会場となっていましたので、お近くの方で観てみたい方は大変な混雑が予想されますので、是非早い時間に足をお運び下さい。

展覧会の感想、その他お伝えしたい事柄につきましては明日以降に報告させて頂きます。



2005年10月24日

ハロウィーンパーティーは大人気&大人の為のお洒落な展覧会

0/23の夕方からUSJへ行ってきました。
今回USJに行く目的は唯1つ、パーク内の限定イベント『ビートルジュースのホーンテッドビート』というイベントを見るためです。
この日は夕方5時からのショーが最終です。ハロウィンパーティー会場会場となった、パーク内の<グラマシーパーク>というスペースは既に多くのお客様で取り囲まれていました。
パーク中央にはちょっと不気味な塔が建てられており、なんだか怖そうな感じ。天気も曇りがちで、一層雰囲気を盛り上げています。
パークの周りには、怖そうなお化けの格好をした人がちらほら歩いていたり、そうかと思うと、写真のように、一見怖そうなお化け役の人が、子供達にお菓子?のようなものを順番にあげていたりと、ちょっと昨年のハロウィーンショーとは違う面も見せていました。お菓子のお化け

 

 

 

5時になると、塔の中央から炎が吹き上がり、パーク周辺にはたくさんの怖そうなお化けたちが登場しました。
そして塔の上に現れたのが、《ビートルジュース》です。ビートルジュース彼の掛け声と共に、登場しているお化けたちが一斉にダンスを始めます。
今年の設定はお化けたちのハロウィーンパーティーに我々が招待された事になっているようです。
昨年までは、集まっているお化けたちがまずは観客を脅かす事から始まったのですが、今回はそれはありませんでした。

短めの踊りが済んだ所で今回のスペシャルゲストの登場となりました。但し、ゲスト登場があるのは土日祝日のみです。
ユンソナ1ユンソナ2

 

 

 

今月のスペシャルゲストは、歌手の《ユンソナ》さんです。白い衣装をまとい、白い天使の羽のようなものを背中に付けて塔の上に登場しました。
それから、ビートルジュースと共に塔の上から、観客やお化けたちと一緒に手拍子をとったり、踊ったりにもしていました。
もちろんUSJのTVコマーシャルで流れているテーマ曲も披露してくれましたよ。
彼女自身、ショーの中盤と最後の2回、ビートルジュースと共に下まで降りて来て、手を振りながら観客のすぐ傍を通って会場を1周ずつしてくれました。
子供達とお化け今年のショーは子供達も参加し易い、決して怖くはないお化けたちの楽しいパーティーになっていました。
(お化けですから、見た目が怖いのは許してあげて下さいね。)
お客様もこのショーがお目当てだったようで、ショー終了後は、ものすごい数のお客様方が、出口のほうへ向かわれていました。
人波に押されつつ、ふとパーク内のほうを振り返るとそこにはもう、巨大なクリスマスツリーが「後は点灯式を待つばかり」といった雰囲気で立てられていました。
点燈式前のツリー

 

 

 

 

 

我々も途中までこの波に飲まれて移動しましたが、出口を出てからは違います。皆さんは駅の方向へ進まれましたが、私達は海の方向へ進みました。

そう、船での移動です。USJの対岸には海遊館があります。USJ側と海遊館側を結ぶ定期船が運航されていますので今回はこれを利用して見ました。
<キャプテンライン>と名づけられたこの定期連絡船、両岸を約10分程度で結んでいます。料金は大人一人が¥600です。
ちょっと高いと思われるかもしれませんが、この切符には海遊館、大観覧車、サントリーミュージアムとシアターがそれぞれ¥100割引になる優待チケットがついていますので、全部回ると、¥400のお得です。
実質¥200で船に乗れたことになりますね。さらに、併設されたマーケットプレイスの案内所でこの乗船チケットを提示すると、マーケットプレイス内の何箇所かのお店で割引特典などがあるクーポン券をくれます。
それらを利用すれば、乗船代金以上のお得になるかもしれません。
船の便数自体が少ないのがネックですが、特に観光でいらっしゃる場合には利用するだけの価値はあると思いますよ。

海遊館側に降りたった私達が向かった先はサントリーミュージアム天保山です。現在、『アールデコ展』が開催されており、これを見に来たのです。
前回一度訪れているのですが、時間の都合で講演会に参加しただけで実際の展示物は見ないままに帰ってしまったのです。
今回はじっくり見ることが出来ました。
今から70年以上も前のデザインなのですが、どの作品も古さを感じさせない現代でも充分通用するものばかりでした。
お勧めの展覧会です。

USJのハロウィーンパーティーは10/30まで、サントリーミュージアム天保山のアールデコ展は11/6までとどちらももうすぐ終了です。
お時間が許すようであれば是非楽しんで来て下さい。



2005年10月09日

“芸術の秋”の味覚に<ミラノ風懐石弁当>はいかが?(大阪市立美術館『ミラノ展』

10/1(土)の午後から大阪市立美術館で開催されている『ミラノ展』に行って来ました。この日は秋の良いお天気で少し暑いくらいでした。
この日、ミラノ展に行ったのには訳がありました。
天王寺駅前にMiO(ミオ)と言う名前のデパートがあります。ここが開店10周年を記念して「おでかけミオ講座」と言う企画を立ち上げ、そのプログラムの1つとして《大阪市立美術館へミラノ展を見に行こう》を開催しました。
今回はここへ参加したと言うわけです。
説明によるとMiOと市立美術館の合同企画と言うものは今回が初めてだったそうです。

大阪市立美術館さて、当日は午後3時半から講座が始まりました。まずは、美術館1階にある<美術ホール>(大階段の後ろ側にあります)で、美術館の学芸員によるレクチャーがありました。
レクチャーは美術館の概要とミラノ店の概要がスライドを交えて約30分間行われました。これによりますと、美術館の開館は昭和11年で、来年でちょうど70年になるとのことでした。
美術館の得意とする所蔵品は石仏をはじめとする仏教美術品と、『南画』と呼ばれる中国絵画で、どちらも個人からの寄贈品だったとのことです。
また、美術館所蔵品第一号となったのは、日本画で題名はちょっと忘れたのですが「唐犬と〜」と言うような感じだったと思います。
二頭のボルゾイ犬の様な犬とボタンの花という構図の絵でした。昭和11年の帝展出品作品を買上げたとのことです。
これらの作品はいずれも『ミラノ展』開催期間中は常設展示作品として美術館1階左側の陳列室に展示されているとのことでした。
『ミラノ展』についてのお話では、大阪とミラノは姉妹都市関係にあり、今回の作品はミラノにある各美術館の好意により無償で貸し出されたものだということです。
展示作品についても、各美術館が「これは見てもらいたい」と思ったものを出品されているらしく貴重な作品も多いようです。
ミラノとしても、今のような<飛行機の乗り換えと、買い物>だけではなく、もっと日本の人にじっくりとミラノを見てもらいたいと言う思いがあっての作品提供という面もあるらしいです。
そこで今回の目玉である、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる2点の素描画が出品されました。ミラノとしては宝物の大切な作品です。
本当は、油彩画を出したかったのですが、油彩画は全てローマやヴェニスの美術館の所蔵となっており、ミラノには1枚も無いため今回は展示出来なかったという悲しい裏事情がありました。

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2005年10月05日

ファンやコレクターでなくても欲しくなる?(建築家 安藤忠雄の本)

10/1にサントリーミュージアム天保山に行った際、ミュージアムショップに立ち寄りました。
実はこのミュージアム、ご存知の方も多いと思いますが、今や日本を代表する建築家 安藤忠雄氏のデザインにより建てられたものです。
関西では彼のデザインした建物が割合多く見られます。例えば、天王寺公園の中にある映像展示館や大阪南河内郡の
近つ飛鳥博物館>、兵庫県淡路島の<淡路夢舞台>など、公共的なものだけでも数えていくとたくさんあります。

それら、彼の作品について、氏へのロングインタビューと、氏自身の文章(論文)、そして作品である建物やそのデザインスケッチなどがカラーで多くちりばめられている本をショップ内で見つけました。

安藤忠雄本表紙タイトルは 『安藤忠雄 建築手法』発行は A.D.A. EDITA Tokyo(エーディーエー・エディタ・トーキョー) ¥2800+税 です。

これだけの事であれば、何も記事にしません。注目して頂きたいのは表紙を開いた次のページです。

実はこの本、安藤氏のサイン入りだったのです。それも直筆の。さらに驚く事には、自身が設計したサントリーミュージアムのラフデザインが。
どうして直筆だと分かるのか? だって、積んであった本を1冊ずつ見比べると、全部、字の形や絵の形が異なっていたんですから。
安藤忠雄サイン<限定>で置かれていたこの本、棚の上に残っているのはもう10冊を切っていました。
そのお隣には安藤忠雄氏の建築作品を写した大きな写真集が置かれてありました。これには、『サイン紙』(色紙のようには厚くない紙でした)がつけれれていました。
これも<限定>ですがお値段は 税込み¥15750 だったと思います。綺麗な写真集で う〜ん、欲しかったのですが、値段が値段なので諦めました。

こんな珍しい本、きっとこのミュージアムショップでしか買えないと思います。
ミュージアムにお越しの際にはぜひ、ショップも覗いてみて、まだ残っているようであれば、1冊買われても損はないと思います。
この本があれば安藤忠雄作品の勉強になりますし、サントリーミュージアムについても少し詳しく知る事が出来そうですよ。
(と書きながら、その私自身、まだ目次と写真を眺めているだけで本文を読んでいないのですが・・)
安藤忠雄 本中の写真1安藤忠雄 本中の 写真2

 

 

 


安藤忠雄建築手法

関西では、長引く不況の為『企業メセナ』の考えが薄れ、特に劇場を中心として閉鎖が続いています。そんな中で私企業でありながら、本業とは異なる<芸術活動>に力を入れられているサントリーさんの態度は素晴しいと思います。
皆さん、大阪港にお立ち寄りの際には、ぜひ、海遊館と共にサントリーミュージアムにも足を運んで下さい。本当に良い所です。



2005年10月03日

今日は芸術のお勉強です。(アール・デコ展開催記念講演会《アール・デコの時代》の報告

題名にもあります通り今日のブログは、芸術についてのお勉強となります。
写真や絵の無いとても長い記事ですので、面白さには欠けますが、読んでからこの展覧会をご覧頂ければ、各展示品を見て感じることや考える事が多くなり、より印象に残る展覧会になるのでは?と、個人的に(勝手に)思っております。
それでは始まります。

アールデコ展チラシ10/1(土)PM6:00よりサントリーミュージアム天保山にて『アール・デコ展』(きらめくモダンの夢)の開催を記念した講演会が大阪湾が一望できる、5F展望ギャラリー内で行われました。
講師は美術評論家の 海野 弘 氏 でした。小柄ですが、真面目で素敵な雰囲気の方です。予定時間より若干遅れての開催となりました。

まず、アール・デコの成立からお話が始まりました。
アール・デコの始まりは1928年にフランスで開かれた工芸展覧会(装飾博覧会)だと言われています。
ただ、この時期には『アール・デコ』という言葉やカテゴリーは存在せず、実際には1960年代に始まった『アール・ヌーボー』の再評価に続き、アール・ヌーボーの「次の時代」という事で注目され、1960年代末頃になって確立されたカテゴリーだとのことです。

第一次世界大戦後から第二次世界大戦が始まるまでの間が<アール・デコの期間>とされています。
この時期に、現代の建築、デザイン、生活様式が確立されたと考えられています。

この『アール・デコ』という時代が生まれるに至った経緯としてはずせない2つの「キーワード」があります。

1つは《都市》、もう1つは《女性》です。

1920年代に「現代の都市」の基礎が確立され、同時にこの時期から「女性の社会進出」が目立ち始めました。

19世紀までの社会は<男性中心社会>で、女性は家庭に入り着飾るものでした。
また、日常の家庭内での生活においては、女性がお化粧をすることは少なく(過度の化粧をするのは“夜の世界の女”と見なされた時代でした)逆にこの時期の女性には、、自宅内でゆっくりとお化粧をする時間がありました。
ちょうどまだこのような環境化にあった19世紀末頃に女性的な曲線モチーフの『アール・ヌーボー』が花開いたのです。

この『アール・ヌーボー』スタイルを大きく変化させるきっかけとなったのが《第一次世界大戦の勃発》でした。

戦争により男達の多くが戦場へ借り出され(駆り出され)、男性の居なくなった<社会>を運営していく為に、否応無く女性が<男性社会の中>へ引き出されていきました。
屋内向けの美しい装飾と“ポン、キュ、ポン”のコルセット矯正されたスタイルの服装から
屋内外で様々な作業をする為の“短く動きやすい”服装へ、そして髪型もロングからショートカットへというどちらかといえば直線的なデザイン形態へと変化していきました。
これが『アール・デコ』誕生の引き金の一つです。
女性の社会進出は仕事面だけではありません。娯楽の世界、特にテニスに水泳、乗馬などスポーツ分野へも進出し始めました。
社会進出に伴い“男性の目”が気になり出した女性達に現代的な「ダイエット」が流行し出したのもこの頃が起源とされています。

また、“日常”、社会進出している為、それまでとは違い<外で>お化粧を直す必要性が生じてきました。
この要求により生まれてきたのが<コンパクト>、<リップスティック>等の《化粧道具類》、そしてそれらを入れておく<ハンドバッグ>、また、時間を知る為の<腕時計>も発達してきました。服装がシンプル化した分、ポケットも少なくなり、また身体を動かす事に伴い落とし易くなった事が原因となり、それまで特に男性に主流であった<懐中時計>は、常に身体にフィットする<腕時計>へとその座を追われて行きました。屋外でタバコを吸う事も多くなり<シガレットケース>や<ライター>といった嗜好品関連の商品もこの時期から急速に発達・普及して行きました。
これらは『アール・デコ』を語る上での重要なアイテムとなっています。

アール・デコの特徴として
/形悩燹新技術を積極的に取り入れた。
⊂霾鵝Φ蚕囘礎の発達により<世界同時的に発達>するスタイルが登場した。
が言われています。
この流れにより、アール・デコ時代の製品には世界中の様々な「モノ」や「技術」が融合されたものが多く見られるようになったのです。その1つが、日本の伝統技術<漆工芸>とシガレットケース、ライターといった<新しい時代の商品>とが上手く融合(今で言う“コラボレートされた”)された商品が作り出されたことであり、もう1つが、情報伝達と流通の発達により、今も続く『パリファッション、パリ・モード』が確立された事なのです。
「今年のパリ・コレはこれ!!」という情報はすぐに流通を通して世界に伝えられ、パリ、ロンドン、ニューヨーク、東京、世界の何処に行っても同じデザイン情報が広がっているという『世界が1つのデザインで繋がる』環境が成立しました。

『アール・ヌーボー』が自然をモチーフとした流れるような連なった「曲線デザイン」に終始したのに対し、『アール・デコ』は断続的とも言える「直線的デザイン」を特徴としていました。
とは言え、この時期さかんとなったエジプトや中南米の遺跡発掘調査によりもたらされたエジプトやインカ・マヤ文明の模様(文様)といったものもアール・デコのデザインに反映された、所謂時間枠を超えた「古代と現代の融合」が起こったのも『アール・デコ』の特徴と言えます。

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