ミュシャ展記念講演会の内容報告についてのお話です。ぜひご覧下さい


2006年01月28日

ミュシャ展記念講演会の内容報告

ミュシャ展チラシUPかなり時間が経ってしまいましたが昨年12月に大阪サントリーミュージアム天保山主催により行われましたミュシャ展記念講演会の内容をご報告致します。


開催されましたのは昨年、2005年12月10日の午後2時からサントリーミュージアムのお隣にある海遊館ホールでした。
今回の講演をしてくださったのは成城大学の千足伸行教授、《アルフォンス・ミュシャーベル・エポックの華から祖国愛の画家へ》という題での講演でした。

まず、最初は今回の展覧会についてのお話です。今回の開催に当たってはミュシャの孫に当たるジョン・ミュシャ氏が理事を務めるミュシャ財団の管理品を提供して頂きました。
次に、アルフォンス・ミュシャの生い立ちについての話となりました。
彼は1860年チェコスロバキアの首都プラハから車で2時間ほどのモラビアの小さな村で生まれました。
父親は裁判所の職員で、罪人を護送する仕事についていました。
ミュシャ自身は子供の頃、教会の合唱団に入っていました。

当時のチェコはドイツ=オーストリア帝国を治めるハプスブルグ家の支配下にあり、ドイツ語が義務づけられておりました。
その為彼はまずプラハからウィーンへ移り、その後ミュンヘンで勉強を続け最終的には27歳の時パリへ移りました。

当時、100万人都市であったパリにおいて、音楽や美術等の芸術を志す“アーティスト”の数は5万人であったと言われています。
そのパリにおいて、ミュシャはまず挿絵画家として仕事を開始しました。
そして1894年の暮れも押し迫った頃、パリのルネサンス座からサラベルナールの新年公演の為のポスターを至急作って欲しいと言う依頼が、印刷業者、ルメルシエの所に舞い込みました。
たまたまこの時、いつものポスターデザイナーがクリスマス休暇で不在だった為、面識のあったミュシャに急遽、代役として白羽の矢が立てられました。
このポスター製作を引き受けた彼は約1週間でデザインを完成させ、その作品をサラに見せました。
後年、ミュシャは、「この時サラはこの作品の前にじっと立ち目をそらす事がなかった。そして私に近づくと私を抱きしめ『よくやった』と言った」と語ったと言う話もあります。
この時彼が描いた作品が《ジスモンダ》だと言われています。
ミュシャ展用写真1

こうして女優サラベルナールの信頼を得たミュシャは彼女の主演作品のポスターを次々と手がけ、一躍人気を博していく事になるのです。

ちなみにこの“ミュシャ”(Mucha)と言う名前、実はフランス語での発音であり、祖国チェコ語では“ムハ”と発音するそうです。

ミュシャが活躍を開始した1890年代、ヨーロッパ世界は<世紀末時代>へ突入して行きました。
この時期はちょうど長く続いてきた<貴族文化>から<民衆(大衆)文化>への流れが生まれてきた時代に相当します。

ミュシャが暮らしたフランスでは、この頃カフェ、キャバレー、サーカスなどが出来始めました。
人々や街を照らす《光》が“ろうそく”から“電気”に変わると共に、《夜》が明るくなり、それに伴って人々の“夜の”賑わいが生まれました。
これが上述の娯楽施設を生み出すきっかけとなったと言えるでしょう。

後世《ベルエポック(よき時代)》と呼ばれる事になるこの時代の“波”に乗ったのがミュシャでした。
彼は従来の“画家”とは異なる“デザイナー”として自身の地位を築いていきました。
また、彼が手がけるポスターを始めとした“印刷物”は従来の“絵画”とは異なり、刷られる枚数が多いので大量に消費する“民衆の支持”なくしては成立し得ないものだったのですが、これも大衆文化の潮流に助けられる形となりました。
そういった意味で彼は非常にタイミングよく登場した“シンデレラボーイ”ともいえるでしょう。

この時期、非常な勢いで広まっていったメディアとしての<ポスター>ですが、フランスではシェレ、ロートレック、ボナールなど、既に多くの作家たちが活躍し人気を博しておりました。
そこに登場したミュシャですが、彼らとはその趣を異にしておりました。

そして時代は《アールヌーボー》へと進んで行きます。
《アールヌーボー》の理想は『芸術の大衆化』にあります。つまり、民衆生活の“潤い”(=生活の美的向上)を生み出す事を目的としていました。
旧来これらの“潤い”は貴族文化に属するものでした。
この『生活の美的向上』という考え方はイギリスから導入されたものでした。

フランスに先立ち、イギリスではジョンラスキンやウィリアムモリスといった人々がこの流れを確立して行きました。
彼らの行動は、従来のような“安かろう悪かろう”ではなく、マイセンやセーブルと言った“貴族用”とまでは行かないものの、“良いものを一般に”提供する事を目的としていました。
ここから『誰でも楽しめる芸術』としての<アールヌーボー>が確立されていくのです。
これにはこの頃生まれた《万国博覧会》が一役買っておりました。
なかでも1900年の《パリ万博》で<アールヌーボー>は頂点を迎えることとなります。
ジャポニズムに代表されるモネやルノワール、アフリカン(野性的エキゾティズムとでもいいましょうか)から影響を受けたピカソやカンディンスキー、博覧会の寵児とも言えるガレやティファニー、様々な美的潮流が生まれていく事になります。
しかしながら、ヨーロッパ列強の覇権主義の衝突が引き起こした第一次大戦と共に<アールヌーボー>は終焉を迎え、続く<アールデコ>の時代へと進んで行きます。

このようにして終焉を迎えてしまった<アールヌーボー>は長く歴史のかなたに置き忘れられていましたが、1960年代に入り再評価を受ける事となりました。
その評価の中でアールヌーボー様式の1つとして<ミュシャ様式>と言う形が確立されたのです。

ミュシャ自身は後年、祖国チェコの独立とその後の支援の為、民族主義的、宗教的な作品へとその方向性を変化させて行きました。
そして第二次大戦の悲惨さを経験することなく1939年にこの世を去ります。
一説によると、晩年、ユダヤ人との疑いをかけられてゲシュタボに連行されたらしく、これが彼の死期を早めた一因だとも言われています。

いまや世界中にその業績が知られるミュシャですが、祖国チェコでの彼の評価は低く、ここ数年になってやっとミュシャ専門のミュージアムが建設されたのは驚きです。

講演会では後半、スライドを使用し40数点の映像を交えながら詳しい説明をされ、終了となりました。

長々と報告して参りましたが、今回の展覧会は残念ながら明日1/29で終了となってしまいます。
販売されていた図録によると、この巡回展覧会はこのサントリーミュージアムが最終の会場となっていましたので、お近くの方で観てみたい方は大変な混雑が予想されますので、是非早い時間に足をお運び下さい。

展覧会の感想、その他お伝えしたい事柄につきましては明日以降に報告させて頂きます。



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